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「国家百年の計」としての人材育成

京都大学大学院情報学研究科教授 中村行宏

産業界との連携
――大学に求められる新しい役割において、成功のカギを握るのは工学部である。
京都大学で教鞭を執る傍ら、わが国の情報通信分野の発展に大きく貢献している中村行宏氏に寄稿いただいた。

「可能な限り貢献する」という意識改革

私は企業の研究所出身で、かつ工学部に籍を置くものとして、「大学の研究成果を産業界に活かすこと」を、自身の重要な役割のひとつと認識し研究に取り組んでいる。産業界から「実用化、製品化、商品化の労をとっても使わせてほしい。情報開示してほしい」と要請されるような成果が大学研究から出るとすれば、とてもいいことだと思う。

では、実際に、そうした成果がどれだけあるだろうか。そこでは、産業界からみて、大学と協力すればモノになるかもしれない「成果予備軍」をどのように考えるかが、重要なポイントになる。
理論的、アルゴリズム的、また、試作レベル段階の成果予備軍を、赤の他人に本当に使ってもらえるものにする。さらに社会の役に立つものにするということに、研究者自身が意義を見出し、情熱とインセンティブを持ってその労をとることが、必須の条件なのである。

工学部の場合、試作と実験をきちんと行って定量的なデータがとれれば、それなりの論文を書くことはできる。研究論文の数、あるいはその引用実績で、大学内、あるいは学会内の立場が安定的に保証されるというわが国の大学界の現行システムにおいては、それだけやれば充分なのかもしれない。

しかし、先にいったように、このレベルの研究成果を他人の使用に堪えるものにするには、そこまでにかけた努力に勝るとも劣らぬ、さらなる努力が必要である。工学的にはここからが本当の正念場といえるだろう。ここがひとつのメルクマールであり、それを泥臭いといって馬鹿にするのではなく、この部分においても可能な限り自らも貢献するのだという意識改革――これが大学人に求められているのである。

旧弊を捨て志を高く

大学人においては、理科系の場合、新しい現象や事実の発見には情熱を注ぐが、そこから先、つまり、社会にどう役立てるかという課題は自分たちの役割ではないと、一段低くみる理学的発想が依然として主流であるようにみえる。
大学と企業との役割分担からは、大学がより原理的、長期的課題の解決に責任を負うということでよいが、それは、大学の研究は、興味のおもむくまま好き勝手にやっていてよいということを意味しない。

この幻想自体、人口に占める教官、学生の割合が圧倒的に少なかった少数精鋭の旧き良き時代の名残である。すべてが大衆化された現実を、冷静に見つめなければならない。
わかりやすくいうと、湯川秀樹先生が現役として活躍されていた1930年ごろと現在を比べると、日本の人口は2倍、京都大学の学生数は4倍、教官数は6倍に増えている。人口に占める教官・学生の割合がこれだけ増えれば質が落ちるのは当然であり、京都大学でさえこうだから、わが国全体ではもっとひどいことになっているであろう。

こういう事実をみれば、成果予備軍を本当の成果とするための努力を続けながら、その過程を通じて、研究への心構えも含めて、人材を育成する必要が、今こそあるという私の気持ちがおわかりいただけると思う。

例えば、電気系の学生には、足腰の強い専門家にすべく、ハードウエアの実験・演習など、かなり泥臭いことにも取り組ませているが、他方、数理情報系の学生は一般に、理論系やソフトウエアを好み、ものづくりの傾向の強いハードウエアを嫌う傾向にあるようだ。

しかし、電気系学生の中には、自分はソフトもハードも身につけているのだから、一方の専門家だけではこなせないような付加価値の高いシステム構築の仕事に取り組みたいと考える、志の高い人間が少なからずいる。このような学生をこそ増やして、その能力とやる気をさらに伸ばしてゆく必要があると考えている。

騒乱を逆手にとる

近年、情報家電に産業活性化の期待が集まり、最近はいよいよ家電ネットワーク化に向けて開発競争が本格化している。ここでは、各種機器接続のインターフェースが重要になるが、そのひとつとして注目されているIEEE1394、さらにマルチメディアの中心となるJPEG2000などの画像処理、三次元音響処理などを対象に、私の研究室ではアルゴリズムの研究開発から実装レベルまでの技術を蓄積しており、その積極的活用により一層の磨きをかけることに努めている。

また、NTT在職中に開発した、高位論理合成CAD「パルテノン(PARTHENON)」によるLSI設計法習得のための遠隔教育システムの研究開発も行っている。これは、京都大学はもちろん、AMF(Asian Multimedia Forum)のプロジェクトのひとつとして、マレーシア、タイ、フィリピン、台湾、韓国などの大学にも提供し、LSI設計の初期導入教育、基礎知識・技術の習得に、ネットワークを介したオンライン環境として貢献するものである。

さらに、創設10年になるパルテノン研究会も東京都よりNPOの承認を受け、一層の社会貢献を目指している。
いうまでもなく、われわれの視線は国内だけに向けられてはいない。グローバル環境で広く貢献することを目指しているのである。もっとも、そうした視点なくしては大学も存続し得ないという当然の気運となっている。

今年度より国立大学が独立行政法人となった。大学にぬるま湯体質を許さず、責任と権限を持たせた「独立」組織にすることは大変結構なことである。しかしその実体は、官僚や彼らが人選した評価機構などが、京都大学の教育・研究の内容を評価・承認し、進捗状況をチェックして口を出すなどという荒唐無稽な仕組みになっている。
本当の評価などできる訳がない。そのことは、日本独自の評価・判断による文化勲章、文化功労賞の授与が先で、その後、ノーベル賞を受賞したという例が皆無であることが証明している。評価のための特殊組織に税金を使うなどもっての外である。

しかし、4月を待たずして全国の大学が評価のための資料づくりに膨大な工数をかけるという本末転倒が既に始まっている。私は、某民間誌による「人事部長の選ぶ役に立つ大学」などの企画記事のほうが余程実態を反映した評価になっていると思うし、国民は利口だから、「京都大学の教育・研究に税金の何パーセントを与えるか」で額を決め、われわれは教育と研究に没頭し、その研究成果、卒業生の品質をみて、例えば、最高裁判所裁判官の国民審査のように、国民がこの額の増減を決定するというシンプルな仕組みにすればよいと考えている。

ご大層な評価体制など害あって益なし、国民のためにならない。学校制度の改悪により、優れた公立高校をすべてダメにした二の舞を大学にも踏ませようというのか。
もちろん、心ある教官は国立大学が従来通りでよいなどと思っていない。とにかく、この騒乱を逆手にとって、大学の教育・研究の中身を、本当に質の高いものにするチャンスであるという危機意識と意欲を持った大学人がたくさん出てきていることも事実である。

わが国の産業の真の発展のためにも、むしろこうした大学の力を活用
し、中身の濃い産学連携を推進すべきである。

教育の原点に立ち返る

私は昨年、欧州におけるモバイル・ITビジネスを視察したが、フィンランド・エスポー市のオータミエニ・サイエンスパークやスウェーデン・ストックホルム市のシスタサイエンスパーク、また、フランスのレンヌ市など、世界的なIT集積地では、ベンチャー企業を生み出す環境を構築しつつあるが、併せて、専門技術をもった人材育成に産官学が協力して組織的に取り組んでいるのが印象深かった。

わが国においても、産学連携などによって新しい技術開発を進めるとともに、優秀な人材を育てる枠組みを、早急に構築する必要があるだろう。

わが国は国土面積も狭く、眠っていても石油が湧いてくるような国ではない。もともと「人」そのもので成り立っている国なのである。貴重な人的資源を活かし、いくら苦しくても、どれだけ面倒でも、とにかく付加価値のある、奥の深い技術にどんどんと挑戦し、額と脳に汗して走り続けてゆくしかないのである。楽しようなどと考えてはいけない。

にもかかわらず、「ゆとり」云々、あるいは円周率を3にしてしまうなど、どこまでわが国の子供たちの学力を低下させ、怠け者にしようというのか。これでは、理数系の勉強が理解できない、理解できないから興味が湧かないという、哀れな子供たちを増やし続けることになるのである。実際、近年発表される世界各国とのさまざまな比較データによると、わが国の高等学校生の学力低下は目を覆いたくなる状況である。

今こそ、小手先の策を弄するのではなく、物事の原点に立ち返って、人材育成という「国家百年の計」に力を注ぐべきである。日本人の大半が、何か自分の利益になることはないかと絶えずキョロキョロしている、何とも浅ましい状況である。本当の仕合わせを求め、より善く生きるには、その基礎に倫理観の裏づけが必須である。

この関西の地には、京都の伊藤仁斎、滋賀の中江藤樹、大阪の緒方洪庵と正に「師」中の「師」ともいうべき教育者がいて、人格陶冶のための学問を指導していたのである。「知と人格」は本来はひとつであったのに、人格教育を捨て去った誤った戦後民主主義による、間違った自由・人権意識からくる「自分勝手主義」、努力した人もしない人も「結果を同じにしろ」という奇妙な「平等意識」が蔓延した結果による頽廃が、行き着くところまで行ったことは最近の世相が物語っている。

倫理教育は大学でやっていては遅いが、そうもいっていられない。倫理力は実践においてのみ磨かれるから、日々の研究活動を通じ、人格教育、倫理教育を実施する――これしかないのである。自分さえ仕合わせになればよいと考える人でも、倫理教育に意を注がなくてはならないところにまで、わが国の精神的荒廃は来ている。

「日本経済が大変だ」「産業が大変だ」「円高になっては困る」との大合唱であるが、こんなことよりもっと大変なことは「教育問題」であると思っている方はたくさんおられると思う。「教育の目的は人格陶冶にある」という教育の原点を復活し、強い「倫理力」を持った人材を育てることにより、真に強い日本、強くても嫌われない日本を実現したいものと思う。

中村 行宏 Nakamura Yukihiro

1944年生まれ。67年、京都大学工学部卒業。69年、同大学院修士課程修了。工学博士。同年、日本電信電話公社(現NTT)に入社、研究部長などを歴任。96年、京都大学大学院工学研究科教授を経て、98年より同大学院情報学研究科教授(通信情報システム専攻)、電気電子工学科長を兼任。大河内記念技術賞(92年)、科学技術庁長官賞(94年)、電子情報通信学会業績賞(99年)など受賞多数。IEEE関西支部役員(IEEE Fellow)、パルテノン研究会会長などの役職も兼任している。

大学改革提言誌「Nasic Release」第10号
記事の内容は第10号(2004年5月15日発行)を抜粋したものです。
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