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入学試験と「2009年問題」の功罪

精神科医 和田秀樹

2009年に「大学全入時代」が到来する。形骸化を招かないためにも、各大学には入学試験の一層の工夫が求められている。
入学試験の意義は? 受験勉強はムダなのか?
新しいアプローチから入学試験の効用を説く。

8割の入学試験は中止!?

さまざまな形で大学が変わっていかざるを得ない背景の中で、もっとも大きな検討課題の一つに「2009年問題」といわれるものがある。
これは、少子化と大学の定員増のために、2009年には大学の志願者数と定員が逆転するというもので、そうなると大学名さえ選ばなければ、希望者は誰でも大学に入れることになる。

予備校の予想では、そのときには、入試を行う大学が2割程度になるのではないかという。大学が定員確保のために推薦入学を大幅に増やすだろうし、一方で、志願者数が定員の1.5倍に満たない(多くの大学は、他大学に流れる人を見込んで、定員の1.5倍以上の合格者数を出す)ために、名前さえ書けば、原則的に全員合格というFランクといわれる学校が四割程度(現在でもすでに15%にもなるそうだ)に膨れ上がるためだ。

Fランクはともかくとして、推薦入学であれば、それなりの学力が担保できるという考え方もあるが、私はそうは思っていない。

推薦入学はアテにならない

実際のところ、早稲田、慶應クラスの大学の学生でも受験時に数学を選択していなければ、2割が分数の計算もできず、7割が中学校レベルの2次方程式が解けない。

入学試験に数学を課さなければ、中学までに習ったことを、これほどまでに忘れてしまうということは、すでに高校卒業という事実が、バリア機能を果たしていないことを意味する。おそらく、赤点や落第、留年などというものはほぼ存在せず、卒業試験を行う高校などはまずないのだろう。

だから、推薦入学で入ってきた学生の学力はあまりアテにならないと考えるべきだ。まして、大学が定員確保のために、高校から「推薦してもらう」立場になれば、なおのことそうなるだろう。

現実に、高等学校が内申書重視で、事実上全入状態になると、高校入試(中学の総復習レベル)が儀式化し、3割程度の得点でも公立高校の普通科に入学できるようになってしまったとのことだ(もちろん低位校の話だが)。

入学試験の二つの機能

もう一つ問題がある。それは入学試験を通じて磨かれるいくつかの能力が育たないということだ。
基本的には、入試には二つの機能があると私は考えている。

一つは、一度身につけた学力や知識を長期間保持していなければいけないということ。
毎日の小テストや中間・期末テストを行うことで、推薦入学者もそれなりの学力や知識を身につけるが、試験が終わるとすぐに忘れてしまうことは珍しくない。

たとえば、歴史の試験などは、教科書の内容のある範囲をほぼ完全に覚えさせるので、大学入試と大してレベルの変わらない問題が課せられることだろう。それを6回もやれば、大学入試の範囲を完全に網羅するはずだが、かなりの部分を忘れているので、改めて受験勉強をやらないといけないわけだ。

入試の場合は、それ以上長い間覚えていなければならない。イギリスの研究でも、日本政府の教育費用負担が少ないのに、優秀な教育を行えたのは高校と大学の入試のおかげ(もちろんいくつかの原因のうちの一つではあるが)と結論づけている。

先の数学の例でもわかるように、一度できるようになっても(おそらく早稲田や慶應の学生であるから、一度は分数も二次方程式もできていたはずだ)しばらくやらないとできなくなることは多い。入試がなくなることで、そのような機能が働かなくなると、確実に大学生の学力低下につながるだろう。

しかし、私がそれ以上に心配するのは、入試の二つ目の重要な機能である、(コンテンツ云々ではなく)知的能力習得の機会が失われてしまうことだ。
よく「学校で勉強することが社会に出て役立つのか」と問われる。特に、高校までの勉強はそうである。

私もコンテンツとしては、多くの場合、ノーと答えざるを得ない。確かに国語や英語の読解力は、役立つ職種が多いかもしれないが、二次方程式が解けることや、覚えた歴史の年号が、社会に出て役に立つことはまずないだろう。

しかし、その際にきちんと復習しないと記憶できないとか、書いて覚えるだとか、要点を覚えるなどの形で身につけた記憶メソッドは大人になってからも役立つはずだ。
数学にしても、場合わけやシミュレーションなど数学的な論理思考が身につく。現に京都大学経済研究所の西村和雄先生の研究では、文系の大学を出た人同士の比較では、入学試験時に数学を選択した人と、しない人では年収にかなりの差がついていることがわかっている。

これは文系と理系の比較でなく、また、入社試験に数学はまず課されないことを考えれば、数学ができるほうが仕事ができることを意味するのではないだろうか?
身につけておかねばならない期間が短くていい定期試験より、身につけた能力を長期間維持しなければいけない受験勉強のほうが、大人になってから役に立つことが多いといえはしまいか?

受験で得られるもう一つの能力

もう一つ、身につく知的能力といえば、志望校の入試問題分析と、それに自己能力を評価した上で、諦めることを含めて対策を練る能力だ。どのような入試問題が出ているから、自分の学力や能力特性ではどのようなやり方をすれば、合格最低点をクリアできるかを検討するのである。

この能力は、自己分析にもつながるし、長期的な視野に立った問題解決能力にもつながる貴重なものだと私は考える。これが受験で得られる隠れた能力だろう。このような能力を日本の多くの高校生が身につけていたのに、それが期待できなくなるのは残念なことである。


学生批判より入試の質の向上を

ここで大学関係者に限らず、多くの日本人が持つある種の反駁が考えられる。勉強そのものは好ましいが、受験を目的にした勉強はいかがなものかと。確かに入試科目しか勉強しなくなるかもしれないし、限られた能力しか測れない。また、自己の充実や知的好奇心を満たすことより、功利的な勉強に走りがちになる。

しかし、誤解を恐れずにいえば、多くの場合、入試問題を変えることで解決がつくのではないだろうか?
たとえば、私立大学の医学部の場合、国家試験の合格率で、志願者が減ったり、国からの補助金が減らされたりするので、大学の4年生くらいから国家試験の予備校化しているという批判がある。

しかし、私の知る限り、予備校化していない大学では、教授が自分の限られた専門範囲を得々として教え、臨床能力がさっぱり育っていない。アメリカのメディカルスクールでは卒業した時点で、ある程度臨床ができるようになっているのに、日本の研修医のレベルは『ブラックジャックによろしく』の主人公以下だと。

これにしても、医師国家試験の問題を大学教授がつくり、およそ臨床に関係ない設問が頻出しているのが問題であって、第一線の臨床医が作成した問題なら、予備校化したところでそれができるようになりさえすれば、大学の授業だけを一生懸命聞いている医学生より、よほど能力がつくだろう。

入試とは、どんな人材をほしいかを示す基本的な部分である。その求められる能力を身につけるために受験生が努力することは、むしろ社会に出てからのさまざまな能力を身につける有効な予行演習になるはずだ。要するに、受験対策ばかりする学生を批判するより、入試問題の質を上げてほしいのだ。全問マークシートの問題で何が計れるというのか?
そういう意味で、「2009年問題」は、社会に出てからの蕫伸びシロ﨟を醸成するチャンスを奪ってしまうことが、最大の罪なのかもしれない。


和田秀樹 Wada Hideki

精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手を経て、1991~94年アメリカカールメニンガー精神医学校に留学。老年精神医学、精神分析学(特に自己心理学)、集団精神療法学を専門とする。
日本初の心理学ビジネスのシンクタンク、ヒデキ・ワダ・インスティテュートを設立し、代表に就任する。主著に『痛快!心理学』(集英社インターナショナル)、『女性が元気になる心理学』『学力崩壊』(PHP文庫)、『〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析』『壊れた心をどう治すか』(PHP新書)、『多重人格』(講談社現代新書)などがある。
現在、心理学、教育問題、老人問題、能力開発、大学受験などのフィールドを中心に、テレビ、ラジオ、雑誌や数多くの単行本を執筆し、精力的に活動中。
●和田秀樹ホームページ http://www.hidekiwada.com/

大学改革提言誌「Nasic Release」第10号
記事の内容は第10号(2004年5月15日発行)を抜粋したものです。
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